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桜井鉄太郎「ユメの行方」第2章―第39回
<1978.07.15 南青山オフィス フェイスフル>
「あー、本物だ!」
思わずトキオは叫んでしまった。秋山のオフィス「フェイスフル」の応接室のソファには長い足を組んで柔和な微笑みを浮かべている加賀武彦が待っていた。
日本のフリープロデューサーの草分けで音楽シーンの中で常に変革を企て続けている加賀は、その野心的な生き方とは裏腹に実にジェントルな人格者だと評判だった。トキオにとって憧れの人であり目標でもあったのだ。
その加賀武彦が目の前にいる。秋山は「ライモンようこそ!」などと加賀をニックネームで呼んでいてかなり親しそうだ。トキオにも秋山が紹介してくれたのだが、その穏やかな物腰は誰もが虜になってしまうのも十分うなづけるものがある。
「トキオ、えみかのプロジェクトはもうスタートし始めたんだ。デビュー曲は彼、加賀武彦作曲でオファー済みだ。CMタイアップも越前屋デパートの秋のキャンペーンソングにほぼ決定だし、今日さりげなく龍さんのOKももらえたからCICレコードと明日から具体的な交渉に入る。ロサンジェルスレコーディングもいつでもスタンバイできる状態にしてある。どう? 素早いでしょ?」
秋山はさりげなく自慢げに語った。トキオが制作費超過問題で悩んでる間に秋山はなんなくこんな重要案件をものにしていたのだ。
「ところで君の処遇のことなんだけど、僕としてはこのプロジェクトの一員として活躍してもらいたい。だけど例の制作予算のことを解決しておかないと、いくらナイス白井くんにちゃんと引き継ぎをしてもviva nonを抜けるわけにはいかないよな? そこで考えたんだ。シャングリラレコードとの契約は4タイトル。後2枚の制作をするとして、原盤制作印税の前渡金2タイトル分400万円がviva nonにシャングリラから入るわけだ。現在、制作費オーバーが約230万円だから差し引き170万円で2枚のアルバムを制作すればトントンになるというわけさ」
「凄い! 秋さん、よくそんなプラン考えつきますね。でも、そんなに低予算でシャングリラも龍さんも納得するもの作れるかなあ?」
「そこはトキオの腕の見せどころさ。そうだ、ヒントになる作品を教えてあげよう」
そう言うと、秋山は膨大なコレクションの並ぶ棚に向かい1枚のアルバムを取り出すとターンテーブルにセットした。『ランディ・ニューマンLIVE』だ。
そうか、そういう手があったんだ。トキオは秋山の指し示すヒントがどこにあるのか即座に理解できた。ローコストで制作しながら中身は不滅の名盤になるようなものを作る。トキオの頭にすぐ浮かんだのはviva non jamに参加していた19歳でハーフのピアニスト兼シンガー見山旬のことだ。
秋山はトキオにひらめいたアイデアを聞くと大きく納得してくれた。
「もう1枚は龍さんが前から興味を示していた超常現象のドキュメントアルバムを作ればいいんじゃないか? それならたぶん2タイトルで170万でOKだよ。早急に企画書を作って龍さんを口説き落とし制作に取りかかろう。そうすればトキオは晴れてviva nonを卒業して我々のプロジェクトの一員になれるってわけさ」
トキオは胸につかえていたモヤモヤが一気に吹き飛んでいくのを感じながら早速行動を開始した。
秋山のオフィスを飛び出ると下北沢の見山旬がバイトをしているソウルバー『スパイク』に向かった。暗い階段を下りていくと古びたラグタイムミュージックが漏れ聞こえてきた。店の中に入るとアップライトピアノを一心不乱に演奏している見山旬がいた。トキオに気がついてないのか演奏を止める気配のない見山。するとそこに現れたのは…。
BACK GROUND MUSIC : RANDY NEWMAN /LIVE
[登場人物]
幾田トキオ(24歳):viva nonレーベル制作担当
秋山圭一(31歳):viva non レーベル顧問
加賀武彦(31歳):カリスマ プロデューサー
見山旬(19歳):シンガー&ピアニスト
【この連載について】
1974年、まだJ―POPなどと呼ばれていないころの日本の音楽シーン黎明期。主人公・幾田トキオは音楽業界人としての第一歩を歩み始めた。以来30数年、さまざまな場所・局面で出会った個性あふれるミュージシャンや業界人らとの交流を小説仕立てで綴る“ドキュメントフィクション”。執筆者は音楽ユニット「Cosa Nostra(コーザ・ノストラ)」などを手がけるミュージシャン・音楽プロデューサーの桜井鉄太郎氏。同氏のブログは桜井鉄太郎.jp

